おすすめの一冊 27

数学者の休憩時間
藤原正彦著 新潮文庫刊

 桜花ほころぶ柔らかな春の日差しに包まれ、無上の幸福を感じながら西行法師の「願わくは花のもとにて…」の歌が脳裏を過るのも、人の世の無常を感じる年齢になったからかも知れません。
 想い起こせば60数年前、多くの若者は戦争が人の運命を翻弄した時代に、人生の春半ばで散って行きました。
 時の流れは全てのものを風化させる力をもっていますが、人間が厳しい時代を何世代もかけて築き上げた、風化させてはならないものも沢山あるように思います。

 今回の「おすすめの一冊」は【「数学者の休憩時間」藤原正彦著・新潮文庫・四百七
十六円+税】です。
 「一芸に秀でる者が多芸に通じた典型」と思われますが、「数学に美と感動を追い続け
る数学者」の味わいのある本に出会いました。

 名著「孤高の人」の作者と満州引き揚げの苦難を描いた「流れる星は生きている」の著者を両親に持つことから想像に難くありませんが、文章の素晴らしさは遺伝子に因るものであることを強く感じます。
 内容は随筆集ですが、数学者の視点で捉えるものの見方にシャープさを感じるとともに、著者の人間性に様々な形で触れることができ、読んでいて心に爽やかな風を吹き込まれる思いがします。
 物事に対する強い感受性と繊細さが魅力的な内容に仕立て上げ、知らず知らずの内に本に引き込まれて行ってしまいます。

 敗戦で満州から引き揚げ、日々の生活に苦闘する母のすがた。戦後の貧しさの中にあって心の豊かさの培われる様子。数十年の時を手繰り、子供の目を通して見つめる時代模様の見事さ。今、失われつつある日本の文化や情緒に対する限りなき哀惜。著者の飄々とした雰囲気からは想像もつかない情念の深さ。父、新田次郎と母、藤原ていに抱く畏敬と情愛が何のためらいもなく鮮やかに描かれます。
 収録されているテーマは多岐に亙りますが、「とっておきの日常生活。いつも頭にあること。考えれば血の沸くこと。振り返れば胸の熱くなること。父の旅、私の旅。」と章立てされ、いずれも著者の人柄が作品と一体となり読む者を魅了して止みません。
 捲るページの彼方此方で、胸に迫る懐かしい感動に何度となく接しながら読み進むうちに、昨年末からのベストセラー「国家の品格」を生み出したバックボーンを垣間見ることもできる筈です。(N)