少数派の自治権を奪う合併

 

上野村長 黒 澤  丈 夫   

 

 今政府は、市町村の数を1,000程度にして経費の節減を図ろうとしている。確かに多少の経費節減は出来るであろうが、大した額にはなるまいし、反面少数派から憲法が与えた自治権を奪って、行政サービスの届かない所を多くつくる。   

これでは末端法定社会である市町村でなければ出来ない行政サービスを受けられない、主張も出来ない住民をつくることになる。

 今進めている大規模合併は、国や都道府県同様の基礎社会を造ることになるが、社会が出来た本来の目的「人と人との協力助け合い」を放置して、経済力で解決出来ることだけを重視することになり、人類だけが行って来た「協力して力や能力を強化して、社会生活を向上強化しよう」と言う麗しい精神活動が衰退して、只札束だけが物を言う殺伐たる社会が広がるだけではあるまいか。

現に今の日本社会は、経済的勝者になって、経済を金力で動かして自分の希望を満たそうとする人間が急速に増え、札を得ようとして他人を殺傷する例が多くなっている。札は単に紙でしか無く、真の価値はその陰に在る人の協力に在ることを全く考えていない。

私は、この様な人には、「カバンに札を一杯詰め無人島に渡り、1万円札を出してライスカレー1皿と注文して見ろ」と言ってやりたい。

勿論、誰も居ないからライスカレーは出てこない。その時、その人は真の経済力は他人の協力が在って始めて存在することを知り、他人の存在、他人の協力の有難さを知るのであろう。 

世界の経済は、18世紀頃から急速に拡大して物質文明は進行している。その物質文明を栄えさせて人類は進化したであろうか? 

地球上で毎年人間相互の争いで死ぬ人口が戦争の無い年でも増加していると聞く。

その原因の多くは、人間の欲望の増長に起因する。

その原因は、巨大化する社会の中で人々が他人の協力や助けの恩を忘れ、個人の欲望を増長させているからだ。

だから私は、人と人との協力が実感出来る基礎社会の存在を大切に思う。

嘗て総理大臣を努められた石橋湛山先生は、新聞記者の時、大正13年9月に社説で、「地方自治体にとって肝要なる点は、その一体と成す地域の比較的小なるにある。地域小にして住民が、その政治の善悪に利害を感じること緊密に、従ってまた、其処に住んでいる人なら誰でも直ちにその政治の可否を判断することが出来、同時にこれに関与する機会が多いから、地方自治体の政治は、真に住民自身が、自身の為に、自身で行う政治たるを得る。」と説いて居られる。

私は、政府が進めようとしている合併は全てこの論説に反するのみならず、少数派の自治の権限を縮小し、憲法の精神に反する部分が在ると考える。

政府は大規模合併を目論んでいるが、大社会必ずしも強力有能ではなく、その住民の連帯意識、協力心が乏しければ合併しても強化出来ない。市町村民の連帯協力する意識が育たないからだ。例を投票率で見ると、私が調査したところでは、市町村関係選挙では首長の場合20%、議員の場合25%、都市の方が投票率が低い。これでは合併大人口になっても、烏合の衆を多くするのみならず、自分達の主張を採用されるケースが乏しくなる少数派を無関心派にして了いはしないだろうか。

国から見れば、市町村は極めて小さな存在だ。だから一部に団結協力の乏しい自治体があっても大したことはない程度に考えたら国を誤る。底辺の社会が連帯意識が強く団結出来ていて、始めて国民が強固に団結する纏まった国家になるのだ。

政府は外国に較べて、国旗を掲げる国民、国家を歌う国民の少ない日本を何と心得ているのだろうか。

私は、そこまで考えて大規模自治体ばかりにすることに反対するのだ。

そんな折柄、私は、『MOKU』の本年10月号に掲載された伊藤真先生の論説を拝読、憲法が少数の味方であることを知って勇気付けられた。

先生の説くところによると、憲法は国の恒久的な指針を示すものであり、その根底には、思いやりや愛に根差した「個人の尊重」という普遍的な価値観が流れていると記してあり、「人権主義」「国民主義」「平和主義」と言う三原則を拠り所としているとも説いている。今、全国には合併問題で苦しんでいる小規模町村が山村や離島等に多々あるが、今の町村での自治権を失えば、自分達の希望することを自分達で決して実行できなくなる。

国は、我々が国から預かっている広い国土や領海の事を思えば、人口だけを計算の基礎とする基準財政需要額を減じて無下に普通交付税を減額出来ないであろう。町村は、存立不能となるような場合は、少数派の立場で考えてくれる憲法の擁護者「最高裁」に頼ることも出来ると思う。(平成14年10月22日)